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曽我廼家喜劇

「山椒の会」旗揚げ公演

〜 あの幻の名場面が、再び 〜

 

平成14(2002)年3月吉日

文責 田口 善敏

最後の天才喜劇役者・藤山寛美さんが日本喜劇界の牽引者として、華やかに活躍していた頃、館直志さんの後継者であった故・平戸敬二さんのもとで、座付き作者として修行を積み、矢継ぎ早に新作を世に問い、そしてまた、数々の名作を補作した米田亘(門前光三)さんが、このたび若手の松竹新喜劇の役者さんを中心にした「山椒の会」を結成し、平成14(2002)年4月、第一回目の旗揚げ公演を行う。

その旗揚げ公演の詳細は、曽我廼家喜劇「山椒の会」のホームページをご覧頂くとして、私と松竹新喜劇との関わりを紹介しょう。

昭和46(1971)年2月の道頓堀・中座公演で、私は「松竹新喜劇」の舞台中継(注1)にカメラマンとして初参加した。記念すべき「松竹新喜劇」劇場中継・第3カメラ操作の演目は、「夢を信じた青年」である。その後数々の松竹新喜劇の名作を知ることになるが、「夢を信じた青年」は新喜劇と言うよりも新劇に近い芝居であった。以来昭和63(1988)年11月、新設された映像技術管理部に異動するまで、17年間にわたってカメラマン、スイッチャーとして「松竹新喜劇」の劇場中継に関わって来た。

注1)我々は「劇場中継」と呼び、「劇中」と称した。テレビ屋は何でも縮めて言う。たとえば、YTVのNNNニュース「今日の出来事」は「今日出来」、ABCの「おはよう朝日です」は「おは朝」、「関西テレビ」は「関テレ」、「公開録画」は「公録」、「ピクチャー・モニター」は「ピクモニ」である。「舞台中継」なら縮めて「舞中」だが、「ぶちゅう」とは言わなかった。

昭和46年当時の放送枠タイトルは「松竹新喜劇 泣き笑い劇場」。毎週土曜午後の放送であった。昭和54(1979)年4月から放送枠が「ビッグサタデー」に変更され、昭和55(1980)年4月からは「なにわ笑劇場」枠として編成された。その後、昭和56(1981)年4月から「寛美泣き笑い劇場」と枠変更をし、昭和58(1983)年4月には「藤山寛美85分」という放送枠になり、日曜午後の放送となった。

手許にたくさんの「松竹新喜劇劇場中継用台本」があるが、私の最後の仕事は昭和63(1988)年6月、道頓堀・中座での「おやじの女」第1カメラ操作である。台本に挟まれていたチラシを見ると、

「昼の部/11時30分開演」

    一、茂林寺文福・作、米田亘・補綴 「喧嘩売買 二場」

    二、館直志・作、平戸敬二・補 「鼓(つづみ) 三場」

    三、藤山寛美・原案、曽我潤一郎・脚本 「浪花の勧進帳 三場」

「夜の部/4時30分開演」

    一、館直志・作、米田亘・補 「愚兄愚弟 三場」

    二、安藤鶴夫・原作、館直志・脚色 「おやじの女 三場」

    三、平戸敬二・脚本 「大当たり高津の富くじ 三場」

   総演出 稲垣 治

とあり、藤山寛美さんは全狂言に出演している。ちなみに観劇料金は、1等席7,000円、2等席4,000円、3等席3,000円である。

私の最後の仕事となった「おやじの女」はいつ放送されたのか。調べてみると平成元年2月5日(日)午後3時30分から4時55分に放送されている。

1本の劇場中継を制作するためには、ディレクターもスイッチャーもカメラマンもミキサーも入念な下見をする。ディレクターはカット割りをするために、足げく芝居小屋に通う。芝居も固まり、カット割り台本が出来上がると、スイッチャー、カメラマン、ミキサーは下見をし、打ち合わせをする。通常技術スタッフの下見は2度行われる(注2)。技術スタッフの下見までに出来上がったディレクターのカット割り台本が、テレビ中継用としてかなり高いレベルの完成度であれば、我々スイッチャーとカメラマンは楽だ。が、しかし俄の流れを組む「松竹新喜劇」は一日として同じ芝居はしない。台詞は飛ばすわ、また戻るわ、アドリブは入るわ、毎日芝居が変わるのが、この劇団の特徴である。「リクエスト芝居」という前代未聞の芝居が出来る下地は、ここにある。従って、下見の後に行われる打ち合わせは、ディレクター、スイッチャー、カメラマンの戦いの場であった。

注2)スタジオドラマでは立ち稽古、カメラリハーサル(縮めて「カメリハ」)、ランスルー、本番という手順で収録するが、劇場中継はカメリハがない。「ぶっつけ本番」なのだ。従って2度の下見を入念にし、観終わった後の「打ち合わせ」が、番組の出来不出来に重大な結果をもたらすことになる。

我々が「劇場中継」スタッフの諸先輩方からしごかれた(教育された)カット割り台本は、芝居の役名ではなく、役者名で書かれていた。従って、「おやじの女」では藤山寛美さん演ずる「三味線ひき 野沢 半助」のウエスト・ショット(WS)は「半助 WS」ではなく、「藤山 WS」と書かれている。曽我廼家鶴蝶さんは「鶴蝶 WS」である。小島秀哉さんと小島慶四郎さんはそれぞれ「秀哉 WS」「慶(四郎) WS」である。東京の新橋演舞場での収録には、東京電子工学院(現コスモ・スペース)というプロダクションの中継車を借りて中継をしたが、後にはスイッチャーやカメラもやってくれるようになった。しかし、東京電子工学院の技術スタッフは、役者名を覚えるのに苦労したらしい。

本拠地、道頓堀・中座を中心に、毎年決まったスケジュールで公演する「松竹新喜劇」の芝居を追い掛け、大阪、東京、名古屋、京都で舞台中継録画を行って来た。新橋演舞場が建て替え中の昭和55(1980)年には明治座で「怪談 亡者の薮入り」「ぼんち子守唄」の第2カメラを操作した。建て替え前の新橋演舞場の横には楽屋からも行き来出来る食堂があり、ものすごい騒音を出すクーラーが置いてあった。昼飯を食べていると、浴衣姿や舞台衣装そのままの役者さんによく逢った。今はもう懐かしい思いでです。昭和56(1981)年1月の正月公演では、池袋のシャンシャイン劇場で「春の夢 宝の入船」「えくぼ」を収録した。

曽我廼家五郎八さん、浪花千栄子さんといった松竹新喜劇の先輩方の舞台姿を観たことはない。NHKラジオの「お父さんはお人好し(注4)」を、九州の片田舎で聴いていた世代なのである。しかし、松竹新喜劇を離れた曽我廼家明蝶さんの「狸狐狸狐噺」の劇場中継を、中座で収録した記憶があるが、あれは一体いつごろであったのか(注5)。また浪花千栄子さんの芝居は、花登匡さん原作・演出の芝居プレビューを観たことがある。映画「二十四の瞳」の恐い「うどん屋のおかみさん」、勝新太郎・田宮二郎の「悪名」の「因島のやくざの親分」の演技が思い出される。

注4)NHKラジオの「お父さんはお人好し」は、昭和29(1954)年12月13日12日31日との記述もある)から昭和40(1965)年3月29日まで、NHK大阪放送局から、花菱アチャコさんと浪花千栄子さんのコンビで、放送されたラジオドラマ。昭和29年は私12歳。「お父さんはお人好し」の以前に放送されていたラジオドラマ「アチャコ青春手帳・僕は山の人気者」では、浪花千栄子さんの母親、花菱アチャコさんがその子供であった。「お父さんはお人好し」の放送が始まってすぐに、花菱アチャコさんと浪花千栄子さんが夫婦になっていたので、子供の私は戸惑ってしまった記憶がある。

注5)その後、本棚を調べたら、劇中用台本を発見した。正式な演目は、北条秀司作・演出、中川彰・演出「江戸みやげ 狸狐狸狐ばなし」で、昭和54年4月の中座公演である。人物(出演者)は、元上方下りの小芝居の女形で手拭い屋の伊之助に曽我廼家明蝶、元千住郭の女郎で伊之助の女房おきわに小山明子、僧形の流れやくざの法印重善に中村梅之助という役どころだ。

技術スタッフの下見は4月23、24日の2日間、午前11時半から行われ、OA(オン・エァ=放送日)は8月4日午後1時からとなっている。

劇中スタッフも懐かしい顔ぶれだ。記録のために書いておこう。

チーフ・プロデューサー

:笹川 博敏(読売テレビ制作局、退社)

プロデューサー

:山田 直也(読売テレビ制作局、故人)

ディレクター

:鍛冶 國義(読売テレビ制作局、現営業局)

アシスタント・ディレクター

:北野 桂子(読売テレビ制作局、退社)

アナウンサー

:小松 昿代(契約アナ、現・フリー)

メイク

:金森 恵美子(読売テレビ編成局、退社)

照明

:岸本 敬二(読売テレビ制作技術局、退社)

チーフ・テクニカル・ディレクター  

:藤川 敏雄(読売テレビ制作技術局、退社)

スィッチャー

:加藤 信夫(読売テレビ制作技術局、退社)

第1カメラ

:徳久 多久美(読売テレビ制作技術局)

第2カメラ

:田口 善敏(読売テレビ制作技術局、出向)

第3カメラ

:安東 武史(読売テレビ制作技術局、現マルチメディア局)

ミキサー

:中村 吉宏(読売テレビ制作局、現営業局)

ミキサー

:和田 貢(読売テレビ制作技術局)

ビデオ・エンジニア

:黒田 昌男(読売テレビ制作技術局、現技術局)

ビデオ・エンジニア

:田中 茂高(読売テレビ制作技術局、現編成局)

VTR収録

:熊倉 正彦(読売テレビ制作技術局)

(注5「江戸みやげ 狸狐狸狐ばなし」の項は、3月24日に追加したものです。)

座長でもあり座付き作者でもあった二代目渋谷天外さんは、私が入社した昭和40(1965)年9月、京都・南座の公演中に倒れ、右半身の自由がきかなくなった。私が松竹新喜劇と関わりを持つようになる昭和46(1971)年に、勉強のため「プレビュー」した芝居は、前年の昭和45(1970)年5月、京都・南座で公演した、15年振りに復帰した曽我廼家十吾さんとの「アットン婆さん」であった。

二代目天外さんは、昭和49(1974)年5月の京都・南座の舞台、「親バカ子バカ」が最後の舞台となった。従って、私が観た天外さんは晩年の喜劇役者・天外さんであった訳だ。その後、昭和52(1977)年9月中座公演で、天外さんの次男・渋谷喜作(現・三代目天外)さんが「蛙の子は蛙」で初舞台を踏んだ。昭和58(1983)年3月18日、二代目天外さんは76歳で喜劇役者と座付き作者の幕を閉じた。76歳と言えば、私の親父が死んだ年令である。

平成2(1990)年5月21日、藤山寛美さんが、60歳の若さで、あっと言う間に亡くなった。天才喜劇役者の早すぎる死である。

そして、平成11(1999)年10月、松竹新喜劇の本拠地であり、且つ我々の仕事場であった道頓堀の中座が閉館した。300年を超える歴史を持ち、数々の名優を世に送りだした、あの舞台がなくなった。

私は松竹新喜劇に限らず、大衆演芸をこよなく愛している人間ですが、役者にしろ、俳優、噺家、漫才師、プロ野球選手等、すべて一芸を持つ者は「一代限り」であり、その芸人・選手が活躍している時に、生きていてその空間を共有しなければ、その芸・技量を満喫出来ない。さすれば私は、涙と笑いのなかにある永遠の真実を問いかけた「松竹新喜劇の芝居」を、いつも我々の前に演じ続けてくれた藤山寛美さんと、同時代に生きていたことに感謝したい。藤山寛美さん、劇団員のみなさん、そして芝居を裏から支えていた裏方のみなさん、ありがとうございました。

また今回、曽我廼家喜劇「山椒の会」が、座付き作者・米田亘さんの演出によって、伝統ある「曽我廼家喜劇」の名舞台を掘り起こし、若手の役者を中心として、我々の前に展開してくれる。

曽我廼家喜劇「山椒の会」のチラシには、次の言葉が綴られている。松竹新喜劇のおおまかな流れを書き留めた文章ともいえるので、少し長くなるが、おつき合いを願いたい。

曽我廼家喜劇の三笑人”

明治三十七年、道頓堀浪速座にて、元歌舞伎の大部屋役者であった五郎、十郎による曽我廼家喜劇が旗揚げした。折しも日露戦争、その世情を即とりいれた「無筆の号外」という芝居が大当たり。これを端緒として、“ニワカ”の流れを汲むこの“笑わす芝居”が人気を博す。

五郎のペンネームは一堺漁人、十郎は和老亭当郎、二人とも脚本を手掛け、演じた。五郎のアクの強い粘りっこい演技に、十郎はサラリとして飄々とした芝居、それは人情喜劇、ナンセンス劇といった演劇のスタイルにもなって、二人の違いが浮き出る。

曽我廼家十吾はその十郎門下である。二輪加出身の十吾は昭和三年に二代目渋谷天外と組んで松竹家庭劇をつくる。十郎に似て、また飄逸な味の十吾は、おばあさん役で後々まで人気を得る。十郎亡き後、五郎一座へも参加していたこともあり、曽我廼家喜劇は五郎、十郎、十吾の“三笑人(さんしょうじん)”に象徴される。それは天外喜劇にも大きな影響を与えたし、名優藤山寛美の演技の中にも色濃く反映されている。

「山椒の会」はその三笑人にあやかって、山椒は小粒でピリリと“笑い”と洒落のめしての第一回公演。先ずは、嫁と姑の対立を、笑いのうち片ずけた曽我廼家流のユーモアあふれる「鼻から提灯」。貧しいながらも強い絆で結ばれた隣同士。ひょんなことから、両家の心にヒビが入り、実意も妙に外れていく。その様が悲劇でもあり、喜劇でもある「五兵衛と六兵衛」。この二本の曽我廼家喜劇にての幕開けでございます。(本文には段落はありませんが、読み易いように段落を入れました。)

今年平成14年は「藤山寛美十三回忌」である。もう、そんな歳月が過ぎ去ってしまったのか。

 

「松竹新喜劇」関連リンク集

「松竹新喜劇」関連リンク集は、『甦る松竹新喜劇の名舞台「藤山寛美十八番箱」 〜「我が青春の缶詰め」を訪ねて 〜』に移転しました。(2008年8月6日)
http://ytaguchi.hp.infoseek.co.jp/sinkigeki/ohako-bako/shinkigeki_index01.html

私のおもちゃ箱 目次  

大阪シナリオ学校 大衆芸能科

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曽我廼家喜劇「山椒の会」旗揚げ公演記録


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