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2005年11月30日
千葉ロッテマリーンズ球団史 http://www.so-net.ne.jp/marines/team/history.html

裸足の野球小僧たち
日本プロ野球機構が現在のセントラル・リーグとパシフィック・リーグに分裂し、我らが「千葉ロッテ・マリーンズ」の前身「毎日オリオンズ」がノンプロチーム「別府星野組」(西本幸雄監督)を母体として、別当薫、土井垣武、若林忠志、呉昌征、本堂保次らの阪神タイガースからの移籍組を主力として誕生した。「別府星野組」からは西本幸雄、「火の玉投手」の荒巻淳、今久留主淳・功の兄弟、らが参加。初代監督は湯浅禎夫。記念すべき第一回日本シリーズで、小西得郎監督率いる「松竹ロビンス」を敗り、日本一に輝いたのは「毎日オリオンズ」であった、と言う事を知るのは、まだ、ずっと後の事である。
第一戦(11月22日)
神宮球場
◯ 毎日 3 - 2 松竹 ●
第二戦(11月23日)
後楽園球場
◯ 毎日 5 - 1 松竹 ●
第三戦(11月25日)
甲子園球場
◯ 松竹 6 - 7 毎日 ●
第四戦(11月26日)
西宮球場
◯ 松竹 5 - 3 毎日 ●
第五戦(11月27日)
中日球場
● 松竹 2 - 3 毎日 ◯
第六戦(11月28日)
大阪球場
◯ 毎日 8 - 7 松竹 ●
私が後年好きになる「毎日オリオンズ」は、優勝した前年同様、湯浅禎夫監督で3位。
「東急フライヤーズ(現、日本ハム・ファイターズ)」から青バットの天才打者・大下弘を獲得し、怪童・中西太が入団。「毎日オリオンズ」は、湯浅禎夫から別当薫兼任監督で2位。「待ってました、別当監督!」と言いたいところだが、この頃は「西鉄ライオンズ」を応援していた。
水戸の暴れん坊・豊田泰光、切り込み隊長・高倉照幸が入団。「毎日オリオンズ」は、若林忠志監督で5位。
日本シリーズでは、フォークの神様・杉下茂の「中日ドラゴンズ」に3勝4敗で敗れた。この年、仰木彬(現・オリックス監督)が入団。「毎日オリオンズ」は、別当薫監督で3位。
「毎日オリオンズ」は、別当薫監督で3位。
後年、神様・仏様・稲尾様と言われた稲尾和久が「西鉄ライオンズ」入団。「南海ホークス」を0.5ゲーム差で逆転優勝。水原茂(円裕)監督の「読売ジャイアンツ」を4勝2敗で破り、初の日本一になる。「毎日オリオンズ」は、別当薫監督で4位。
稲尾和久、35勝を挙げて、「西鉄ライオンズ」パ・リーグ優勝。日本シリーズは、水原茂(円裕)監督の「読売ジャイアンツ」を、4勝1敗で破り、2年連続日本一となる。「毎日オリオンズ」は、別当薫監督で3位。
「南海ホークス」に11ゲーム差をつけられながら、「西鉄ライオンズ」逆転優勝。日本シリーズは水原(円裕)監督の「読売ジャイアンツ」を、3連敗のあと、4連勝し逆転優勝。3年連続日本一となる。この年、「読売ジャイアンツ」の長嶋茂雄、新人ながら、本塁打王、打点王の二冠を獲得した。 私は、この日本シリーズの映像を秘蔵しています。「毎日オリオンズ」は、「大映スターズ」と合併し、球団名を「大毎オリオンズ」に変更し、別当薫監督で4位。
何故、オリオンズ・フアンに?
当時、個性の強い「西鉄ライオンズ」の選手の戦いぶりは、「野武士野球」と呼ばれ、遥か博多の地から全国制覇を成し遂げていった。この「野武士野球」の強さは、福岡県と大分県の県境の小さな村にも直ぐに伝わって来た。それでなくても、勝負ごとに血が騒ぐ土地柄である。当然の事に、「西鉄ライオンズ」ファンが大勢いた。一方、川上哲治選手、与那嶺要選手のいた「読売ジャイアンツ」のフアンもいた。そんな訳で、田舎の草野球チームは「西鉄」と「巨人」に別れて試合をしていた。私は当然「西鉄ライオンズ」を応援していた。が、小学校高学年の頃、中学生の草野球仲間から、「別当薫のサイン入りパット」と「荒巻淳のサイン入りボール」を見せられて、「西鉄ライオンズ」よりも「毎日オリオンズ」を好きになってしまったのである。プロ野球選手が使っている「硬球」を見るのも初めてであったし、これがプロ野球のバットか、と、握らせてもらったあの感動が、かくも永い「オリオンズ・ファン」の始まりだった。何故、田舎の少年が「別当薫のサイン入りパット」と「荒巻淳のサイン入りボール」を持っていたのか。実は、その少年のお姉さんが、「毎日オリオンズ」の遠征先の旅館で働いており、サインを貰った訳である。その事があって以来、私は、強く「毎日オリオンズ」を意識し、中学になると、自作の鉱石ラジオでナイター中継を聴くようになり、又、新聞のスポーツ欄をよく読むようになった。
私が大学受験の年、西本幸雄監督率いる「大毎オリオンズ」は、西本監督就任1年めにして、パ・リーグ優勝を成し遂げた。一方、セ・リーグでは、「西鉄ライオンズ」を3年連続して日本一に導いた三原脩監督が、セ・リーグのお荷物チーム「大洋ホエールズ」に復帰し、宿敵・水原「ジャイアンツ」に勝負を挑み、「三原マジック」を発揮して「大洋ホエールズ」を優勝させた。敗軍の将「読売ジャイアンツ」水原茂(円裕)は、川上哲治に監督の座を譲り、ユニフォームを脱いだ。日本シリーズに臨んだ「大洋ホエールズ」の布陣はいかに。投はエース秋山-土井のバッテリーを中心にして、完全試合男・島田源太郎投手、他。打はあの「トンボ捕り打法」の近藤和彦、主砲・桑田武、金光ら。後年「千葉ロッテ・マリーンズ」監督として、18連敗の日本プロ野球新記録を作った近藤昭仁が新人だった。確かに「大洋」は強かった、が「大毎」の敵ではないと、私は思っていた。田宮謙次郎、榎本喜八、山内一弘、葛城孝雄のクリーンアップは「ミサイル打線」と呼ばれ、榎本は 3割4分4厘の首位打者(2位・田宮、3位・山内、6位・葛城)、主砲山内は本塁打 32本、打点 103点の二冠を獲得していた。投手陣はエース小野正一が、33勝で最多勝利、防御率トップの 1.98、勝率1位の7割5分で投手部門三冠、奪三振 258個。他に、中西勝己16勝、若生智男13勝、三平晴樹12勝、そして、あの「火の玉投手」荒巻淳もいた。どうみても「大毎」の4連勝と思った。結果は、言いたくない。言いたくない結果のため、就任1年目でリーグ優勝した西本監督は、日本シリーズの采配を巡って、オーナー永田ラッパの逆鱗に触れ、退団。私は、この日本シリーズの映像を秘蔵しています。この日本シリーズ第2戦(10月12日)の試合中、日比谷公会堂で行われた立会演説会で、社会党委員長・淺沼稲次郎が、右翼の少年に刺され死亡。戦後15年が経ち、日米安保闘争の政治的混乱と高度経済成長を遂げる前夜の出来事である。
私が初めて「大毎オリオンズ」の試合を観たのは、今は、もうない、後楽園スタジアムであった。大学に入った年、昭和36年(1961年)春である。監督は宇野光雄で、この年4位。
「大毎オリオンズ」は、南千住に東京スタジアムを建設、本拠地とした。この球場にも何度か足をはこびました。監督は宇野光雄で4位。
前年オフに「世紀の大トレード」と言われた「大毎オリオンズ」の主砲・山内一弘と「阪神タイガース」のエース・小山正明のトレードが成立。小山正明はこの年、30勝を挙げた。オフには上尾の山崎裕之が入団。本堂保弥監督で4位。この年、第18回東京オリンピックが開催され、東京-新大阪間に新幹線が開通した。また、偉大なる歌手・都はるみがデビューし、「あんこ椿は恋の花」をヒットさせる。
「東京オリオンズ」は、監督本堂保弥から濃人渉代理監督で5位。
この年、濃人渉監督で3位。
8月、私は念願の制作技術に異動し、カメラマンの修行を始めた。
大阪万博の年、我が濃人渉「ロッテ・オリオンズ」は、小山・成田・木樽の三本柱を擁し、打線は池辺巌・ロペス・アルトマン・有藤通世で、創立以来10周期優勝説どおり、パ・リーグ優勝。川上哲治監督の「読売ジャイアンツ」と日本一を争った。が、結果は、言いたくない。私は念願の制作技術カメラマンとしてスタートを切ったところだった。この後、プロ野球中継カメラマンとして「阪神タイガース」「南海ホークス」「近鉄バッファローズ」「阪急ブレーブス」の在阪球団の試合を追い掛ける人生が始まる。広島球場の巨人−広島戦を放送するために、広島まで中継に行った事もありました。初登板は、昭和46年(1971年)3月、姫路球場での「阪急ブレーブス」対「読売ジャイアンツ」のオープン戦だった。
野球中継のカメラ配置
当時の野球中継のカメラ配置は、投手、打者・捕手を撮るカメラが、バックネット裏にあり、バックスクリーンからの映像はなかった。バックネット裏を「1カメ(1カメラの意、以下省略)」といい、打者の打った打球の方向を見せた。一塁上段のカメラを「2カメ」といい、試合展開総てを見せる中心のカメラである。さらに、一塁ベンチ上辺りに打者と投手のワンショットを撮るカメラ「3カメ」がある。これが野球の基本カメラ配置で、この基本カメラ配置を考案したのは、日本テレビのスポーツである。私がプロ野球のカメラマンになった頃は、「4カメ」が三塁側に配置されていた。撮影技術的に言うと、これは間違いである。私にカメラワークを教えてくれた師匠はドラマを永くやっていた人だが、その人に「会話線を守れ」と、言われたことがある。どういうことかと言うと、例えば、二人の人物A、Bが向き合った会話シーン(Aが上手、画面右側。Bが下手、画面左側)を、3台のカメラで撮影することを想定して下さい。この場合、中央に居る「2カメ」はツー・ショットを撮り、「1カメ」「3カメ」はそれぞれ正面のワン・ショットを標準的には撮ります。そのうちに、会話が盛り上がり、端カメ(両端のカメラ。この場合、1、3カメ)は、「なめ」とか「ごし」のカット(撮ろうとする二人の立ち位置とカメラアングルで名前が違いますが、手前の人物を少し入れて構図を決めるショットを言う)を撮りたくなります。この時、間違っても、二人が会話している線(二人の間に線を引き、それを両側に延ばして下さい。それが会話線です)を越えた位置から撮ってはいけません。何故か ? 会話線を越えて撮ると、中央に居る2カメで見ると、画面右側にいる人物Aが、端カメでは画面左側にいることになります。従って、このふたつのカットを連続してスィッチングすることは出来ないのです。但し、現在のドラマ制作では、このセオリーを無視して「ショッキング・カット」を挿入する演出者もいます。もとの野球のカメラ位置の話に戻りますが、つまり、野球中継の画面は一塁側から観た目線で構成されています。しかしながら、この基本カメラ配置では左打者を正面から捕らえることは出来ません。そこに登場したのがハンク・アーロンの大リーグ記録を塗り替えた王貞治(元、読売ジャイアンツ。現、福岡ダイエー・ホークス監督)選手です。この頃になると、テレビ野球中継も世間に認知され、どの位置から撮った映像かが視聴者に解るようになっていた為に、あえて、撮影技術のセオリーを無視したカメラ・ポジションが可能になったのです。その後、昭和53年(1978年)、大リーグで採用されている「投手、打者・捕手を撮るカメラ」がバックスクリーン横に配置され、ホームラン・カメラとよばれる、スロービデオ再生専門のカメラが、外野席に配置されたりして、現在の野球中継カメラ・ポジションが完成したのです。
監督1年目の金田正一「ロッテ・オリオンズ」は、東京スタジアムが昭和47年(1972年)限りで使えなくなり、仙台市の宮城野県営球場を準本拠地とし、ジプシー生活が始まるのである。この年「ロッテ・オリオンズ」は、前後期共に2位。私は、昭和46年(1971年)からカメラマンとして、プロ野球中継に関わって来ました。その中で、一番忘れる事の出来ないことが、昭和48年(1973年)10月22日、甲子園球場で起こりました。この年のペナントレースは大混線で、何とリーグ優勝が「阪神-巨人」の最終戦に持ち込まれたのです。この試合に勝った方が優勝。阪神は引き分けても、昭和39年以来9年振りの優勝です。甲子園球場は盛り上がりました。しかし、この大事な試合に「阪神タイガース」は、0対9の大差で負け。怒った阪神ファンが球場に雪崩れ込み、三塁ベンチで巨人の選手に暴行を加えました。私は4カメと呼ばれていた三塁側のカメラを担当し、目の前に繰り広げられる暴徒と化した阪神ファンをテレビカメラで捕らえていました。ところが、三塁側観客席に居た巨人ファンが、ベンチ前の阪神ファン目掛けて物を投げ出しました。阪神フアンもこれに応酬し、ビンが観客席に当たって割れます。生きた心地はしませんでした。この最終戦は***放送と****テレビの2局が放送していたのですが、バックネット裏の1カメが、両局共に壊されました。被害届を出してくれ、と甲子園署に言われ、薄暗い取調室で調書を取られました。川上巨人の「V9」が達成された年の出来事です。
我が金田「ロッテ・オリオンズ」は後期1位となり、プレーオフで「阪急ブレーブス」を3タテで敗り、パ・リーグ優勝。投手陣はカネやんの弟の金田留広・村田兆治・木樽正明・成田文男・三井雅晴(この年の新人王)、打線は弘田澄男、得津高宏、山崎裕之、ラフィーバー、アルトマンらで、「読売ジャイアンツ」のV10を阻止した与那嶺「中日ドラゴンズ」と日本一を争う。日本シリーズ第1戦は、10月16日、中日球場で行われた。当然、観に行きました。三塁アルプス席中段で観ましたが、周りは中日ファンだらけで、大人しく、ただ観るだけ。第一戦は、得津選手の木俣捕手への守備妨害で7分間の中断。村田のリリーフ成らず、逆転サヨナラ負け。
第一戦 10月16日
ナゴヤ球場
◯ 中日 5 - 4 ロッテ ●
第二戦 10月17日
ナゴヤ球場
● 中日 5 - 8 ロッテ ◯
第三戦 10月19日
後楽園球場
● ロッテ 4 - 5 中日 ◯
第四戦 10月20日
後楽園球場
◯ ロッテ 6 - 3 中日 ●
第五戦 10月21日
後楽園球場
◯ ロッテ 2 - 0 中日 ●
第六戦 10月23日
ナゴヤ球場
◯ ロッテ 3 - 2 中日 ●
この日本シリーズ第一戦とよく似た状態で観戦したのは、5月21日、「遺恨試合」と言われた平和台球場での一戦。但し、この「遺恨試合」には伏線がある。少し長くなるが、書き留めておきたい。4月27日、川崎球場での対大平洋(現・西武。但し、本拠地は博多の平和台球場)戦、4回裏のロッテ攻撃は1死3塁の場面で、投手成田が左翼フライを打ち上げた。三塁走者の弘田は素早くタッチアップして本塁へ。大平洋の左翼手東田はフライをつかむと同時に三塁手ビュフォードに中継、ビュフォードは捕手宮寺に矢のような球を送った。しかし、弘田はセーフのタイミングで本塁をついた。が、捕手宮寺は左足を上げて走り込んで来る弘田の左足を払いのけたからたまらない。163cm の弘田の躰は宙を飛び、そして落下した。斎田主審の判定はセーフ。この瞬間、一塁コーチボックスにいた金田監督は血相を変え、猛烈な勢いで捕手宮寺を目掛けて走り寄り、「弘田の足が折れるやないか。無茶な妨害をするな!!」と右肩で強烈な体当たりを喰わせ、さらに左足を上げて蹴飛ばすようなアクションをした。それを見ていた大平洋のビュフォードがいきなり金田監督の首筋に飛びついた。そしてお決まりの大乱闘だ。結果、金田監督とビュフォードが退場処分。そして、5月21日から平和台球場での大平洋・ロッテの3連戦である。この頃、ロッテ、大平洋、阪急は三つ巴の首位攻防戦の最中にあった。こんな試合、誰だって観たいよね。早速、博多に住む旧友Hくん(彼とは大行司小学校以来の同級生で、大学4年間を同じ下宿で過ごした)に連絡し、チケットを手に入れてもらい、二人して平和台球場に駆けつけた。偶然にも彼もオリオンズ・フアンなのだ。三塁側の内野席だが、あたりはすべて大平洋のフアンばかりで、うかつに拍手も出来ない状況だった。試合中もモノは投げ入れるわ、有藤三塁手の足元に花火をなげいれるわ、で野球どころではない。口々に「金田、出てこい」の大合唱。金田監督もロッテの選手も集中できず、3対2で敗れた。帰りに球場ちかくの赤坂で飲んでいたら、司会者が出てきて「大平洋がロッテに勝ちました」やかましわい、解っとるちゅうねん。俺達はさっきまで平和台におったんや。第一試合だけ観て帰阪したが、第二戦は雨。第三戦は木樽が通算100勝目となる記録をつけて、大平洋を下したため、試合終了後、またまたモノが投げ込まれ、金田監督以下選手全員は福岡県警の装甲車に分乗してホテルに辿り着いたそうである。この年、「読売ジャイアンツは永遠に不滅です」の言葉を残して、日本プロ野球界のスーパースター・長嶋茂雄が引退し、監督に就任。
川崎球場を本拠地とする。第一次金田監督最後の年、前期5位、後期3位。結局、捕手・野村克也はオフに「西武ライオンズ」に移籍。
世紀の大トレードで「ロッテ・オリオンズ」を去ったミサイル打線の主砲・山内一弘を監督に迎えたが、日本シリーズへ駒を進めることはなかった。しかし、「止まらない、止まらない、カッパ・エビセン」教育法で、この年入団した落合博満を三冠王に育て上げた。
落合博満、打率.325、本塁打32、打点99、で三冠王になる。監督は山本一義で、前期最下位、後期4位。この年限りで、パ・リーグの2シーズン制が廃止された。
3年前に肘痛のため戦線を離脱した村田兆治が復活した。5月12日、あの「マサカリ投法」を観るために藤井寺球場に足を運んだ。一家4人の大ロッテ応援団である。ネット裏に陣取りビールを片手に村田の投球を楽しんだ。この日、村田は7回を投げ、投球数102、被安打4、奪三振4、自責点3で、負けなしの5連勝を飾った。この後、毎週日曜日に登板し、「サンデー兆治」と呼ばれるようになり、その後日曜日以外にも登板し、開幕以来11連勝を記録。この年村田は24試合に登板し、17勝を挙げ、5敗。完投10、投球回数173回2/3、被安打181、被本塁打20、奪三振93、自責点83、防御率4.30の成績であった。 落合博満の成績は、打率.367、本塁打52、打点146、で2回目の三冠王になる。この年、就任2年目の稲尾「ロッテ」は2位。
落合博満の成績、打率.360、本塁打50、打点116。この年、就任3年目の稲尾「ロッテ」は4位。オフに有藤通世が引退し、監督に就任。有藤監督はこの後、昭和62年(1987年)5位、昭和63年(1988年)最下位、昭和64年(1989年)最下位と低迷した。低迷の原因のひとつは、有藤の監督経験のなさにあった。また、それを選んだ球団フロントにも責任がある。昭和52年(1977年)来日以降、昭和61年(1986年)まで、試合数1211、打数4555、安打1476、本塁打274、打点871、死四球473、三振638、打率.324、日本球界ナンバー・ワン助っ人“レロン・リー(兄)”を腐らし、退団に追い込んだのは、誰だ。この頃の「ロッテ野球」は、本当に見る気がしなかった。
この年、10勝(8敗)を挙げた村田兆治が引退した。痛めた肘を手術してから6年間に、59勝を挙げ、最後まで速球を投げ通した頑固な投手が、通算215勝の記録を持って名球会入りした。私は2年前の11月、19年間のカメラマン人生に別れを告げ、ネクタイにスーツの映像技術管理部勤務となった。
千葉幕張に「千葉マリーン・スタジアム」を建設し、金田正一から「西武ライオンズ」の投手コーチをしていた、完全試合男・元「ロッテ・オリオンズ」投手・八木沢荘六を監督に迎え、ユニフォームも一新したが・・・。この年、最下位。
8月2-4日、一家4人の大応援団を組織し、対「西武ライオンズ」3連戦を観戦。この日は、八木沢荘六監督辞任の日で、ヘッドコーチの中西太が監督を代行。やっぱり「千葉マリーン・スタジアム」での応援は最高です。ドーム球場で、花火、観れるか。この年、5位。この年秋、広岡達朗がゼネラル・マネージャーに就任。私は前年の6月、番組本部編成局編成部に異動。
5月1日(水)、森ノ宮にある日生球場で開催されるプロ野球最後の公式戦、近鉄-ロッテ戦を観戦。以前、中継カメラを振った懐かしの球場です。8月1-3日、あのボビー・バレンタイン監督で沸く「千葉マリーン・スタジアム」での対「オリックス・ブルーウエーブ」3連戦を、一家4人の大応援団を組織し、観戦。ホテルで「オリックス」ファンと間違えられ、気分を害する。「関西にかて、ロッテファンは、いるんじゃい!」 この年は、よく頑張って、2位。が、何故か、ボビー・バレンタイン監督は解任された。また、この年1月17日、阪神大震災が起こり、死者 5,000余名の大惨事となる。「がんばろう神戸」を合言葉にした「オリックス・ブルーウエーブ」がパ・リーグ優勝。3月、東京では「地下鉄サリン事件」が起きた。
大阪ドームが「近鉄バッファローズ」の本拠地として完成。5月28日(水)観戦。吉鶴捕手のプロ入り第1号ホームランを確認した。
我が愛する「大毎オリオンズ」と昭和35年に日本一を争った「大洋ホエールズ」改め「横浜ベイスターズ」が、「ハマの守護神」佐々木を擁した近藤監督のもと、38年振りにセ・リーグ優勝を果した。続く日本シリーズでも「西武ライオンズ」を敗り、日本一に輝いた。
一方、私の「千葉ロッテ・マリーンズ」は一体どうしたのだ。5月には首位の座にありながら、6月から7月にかけ、実に18連敗という未曾有の日本プロ野球新記録を樹立し、38年前「大毎オリオンズ」と日本シリーズを争った時の勝利者「大洋ホエールズ」MVP男・近藤昭人監督は、日本シリーズの騒ぎを他所に静かに去って行った。確かに、1997年、ヒルマンと伊良部両投手の抜けた痛手は理解する。しかし、それは前年のことだ。ペナントレースは、死んだ子の年を数えていては勝てない。
1998年オフに、二軍で福浦、後藤ら若手を育てた実績のある、山本功児監督(46歳)が誕生した。監督! 今世紀中は土台作りです。優秀な若手を育て、21世紀には、期待しています。7月には首位になったが、残念ながら、結局4位でシーズンを終了。ウォーレンが 31セーブポイントで最優秀救援のタイトルを獲得。エース黒木は、14勝10敗(2位)、防御率 2.50(2位)。
9月30日、元ロッテ・オリオンズのエース・村田兆治さんの子息と出会う。この年優勝した福岡ダイエー・ホークスの元投手コーチで、元ロッテ・オリオンズのエース・村田兆治さんの子息を紹介された。お父さんによく似た長身の好青年である。親父さんの全盛時代は、あまり知らない、とか。お母さんの書かれた「明日ありて 甦れ!マサカリ投法」「甦った男 続・明日ありて」の話や、手術後に復活した「サンデー兆治」を観るために藤井寺球場に行った話をし、今度会う時は、写真を撮ろう、と約束した。10月20日、現「千葉ロッテ・マリーンズ」山本功児監督のお兄さんを紹介された。山本監督のお兄さんがよく来社されるという話は、以前から聞いていたが、ついにお会いする機会を得た。山本監督によく似た、男前でがっしりとした体格の方である。千葉ロッテ・マリーンズ・ファンになった訳をお話すると、いきなり、ポケットから、球団旗がデザインされたロッテガムを取り出され、私に下さった。プロ野球中継カメラマン時代の、今はもうない関西の球場(大阪球場、日生球場、西宮球場、藤井寺球場)の話をし、山本氏はオープン戦でロッテが来阪した時、山本監督、コーチを招待して、激励会をやったこと、などをお話された。私的な会合ではあったが、毎日オリオンズ時代からのファンの方も大勢集まられた様子だった。今度そのような機会があれば、ぜひ参加させて下さい、とお願いをした。シーズン終了後、河本育之投手(32歳)と巨人・石井浩郎内野手(35歳)とのトレードが成立。FA宣言した小宮山悟投手は、7勝10敗の成績で、戦力外通告を受け、横浜に移籍。うーん、これはもったいないな。もめていたウォーレンは残留が決定。また、巨人から河野博文投手、日ハムから元ヤクルトの秦真司外野手、同じく日ハムから元オリックスの本西厚博外野手をテスト入団。新外人選手は元ロッキーズのスィッチヒッター・ジェフ・バリー外野手、同じくロッキーズの2Aから左腕クリス・ロバーツがテスト入団。ドラフト1位は、シドニー五輪予選でも活躍した即戦力左腕・高橋薫投手(23歳、日本通運)、同2位は、147Km の速球を武器にする清水直行投手(23歳、東芝)、 同3位は、多彩な変化球とコントロールで勝負する右椀技巧派・戸部浩投手(25歳、東芝)、らが入団。私の「千葉ロッテ・マリーンズ」は、素質ある選手を入団させ、たくましく育てる若々しいチームである。どこかの球団とは、違うのだ。10月、球団のホームページから「千葉ロッテマリーンズ50年史」を注文。
3月26日、川崎球場は、横浜・ロッテのオープン戦で、48年間の歴史に終止符を打った。この日のロッテ打線は絶好調で、26安打、10本塁打と打ちまくり、22対6で勝利した。試合後はロッテの私設応援団が右翼席に移り、オリオンズ時代の球団旗をなびかせ、愛甲、五十嵐、らロッテを去った選手のテーマ曲をトランペットで演奏しながら、延々とコールを続け、川崎球場に別れを告げたらしい。この話を新聞で知り、感涙にむせんだのは私独りだろうか。このような応援団を持つ千葉ロッテ・マリーンズは、日本一幸せな球団と言えるだろう。
その昔、関東地方では「テレビじゃ観れない川崎劇場」というテレビCMをやっていた。そこで3月、一念発起して、CSのスカイパーフェクトTVと契約した。これで「地上波じゃ観れないマリーンズ劇場」の試合が、かなり観戦出来ます。5月22日(月)、ミナミの宗右衛門町のはや市場で「第3回山本功児監督激励会」が行われた。山本監督、袴田英利チーフコーチ、広野功打撃コーチ、高沢秀昭打撃コーチ、小野和幸投手コーチ、井上祐二投手コーチ、筒井良紀バッテリーコーチ、佐々木信行ブルヘンコーチ、佐藤兼伊知内野守備走塁コーチ、高橋眞裕外野守備走塁コーチ、立花龍司コンディショニング・ディレクターとロッテファンおよそ60人が参加した。 この激励会は山本監督の実兄がプライベートに開かれたもので、今回が3回目らしい。私はもちろん初めての参加だが、監督にサインをしてもらい、小野投手コーチに投手陣を預かる苦労をねぎらい、高沢打撃コーチには初芝、堀の不調を訴えた。驚いたことに、突然指名を受け挨拶をさせられた。私はマイクを手に「幼い頃からのオリオンズファンであり、千葉ロッテ・マリーンズは必ず強くなるチームである」と宣言した。写真はちびっこの求めに応じてサインをする山本監督。CS放送を観るようになって気付いたことだが、山本監督は試合終了後、必ず外野応援団に手を上げて、応援に対する感謝の気持ちを表している。山本監督自身の人柄がにじみ出ている風景である。選手も皆、ヒットを打って塁上に立った時、必ず手を上げて外野応援団に答えている。このように、監督、選手と応援団が、心ひとつにして闘っている球団はすばらしい。こんな山本千葉ロッテが大好きである。今季は惜しくも5位に終わった。昨年が4位だから、依然Bクラスのままではあるが、あの4月の成績から、よくも立ち直ってくれた、と思う。しかしながら、我が千葉ロッテマリーンズはまだまだ未熟なチームであることに間違いない。1シーズンを通して、フルに力を発揮出来る選手が少ないと言うことだ。山本監督の手腕と選手諸君の力量に期待し、来期も応援するぞォ〜〜〜。
今年は山本監督3年目。勝負の21世紀です。広島からミンチーを獲得した投手陣は、黒木、小野と3本柱が出来上がり、清水直、川井、西武から移籍の横田やヤクルトから移籍の左腕・山崎も期待できそうです。ルーキーの左腕・加藤もサブマリン・渡辺俊も先発で行くようですから、こりゃ期待で胸が膨らみます。吉田、和田、竹清、後藤といった中継ぎ陣が試合を作り、中継ぎのエース・藤田と守護神・小林雅が勝利を呼び込んでくれます。捕手陣は経験豊富な光山が巨人から移籍し、若い清水将や橋本を指導教育してくれるでしょう。攻撃陣はメイの加入ぐらいで新鮮見はないのですが、石井に怪我がなく、堀や初芝がスランプを克服して活躍すれば、力を着けて来たサブロー、福浦、立川らが頑張るし、ボーリック神話も飛び出せば、もう優勝するしかないでしよう。3月1日(木)、スカパーに「プロ野球セット」を申し込む。昨年の11月から契約解除していたスカパーに「プロ野球セット」を申し込んだ。1ケ月2,700円也。あとは2001年度の開幕を待つのみです。3月7日(水)、第4回山本監督激励会。今年もミナミの宗右衛門町のはや市場で「第4回山本功児監督激励会」が行われた。この激励会は山本監督の実兄がプライベートに開かれたもので、今回が4回目。私は二度目の参加だが、昨年に比べると参加者が多く、入りきれないフアンは隣室まで溢れていた。
山本監督をはじめ、醍醐ヘッドコーチ(復帰)、仁科時成投手コーチ(復帰)、小野和幸投手コーチ、高沢秀昭打撃コーチ、山下徳人打撃コーチ、袴田英利バッテリー・コーチ、筒井良紀ブルペン・コーチ、佐藤兼伊知内野守備・走塁コーチ、西村徳文外野守備・走塁コーチ、荘勝雄トレーニング・コーチ、また球団から川北智一運営部長にお集り頂き、関西の千葉ロッテフアン約100名が参加して大いに盛り上がった。
この日のオープン戦・阪神−千葉ロッテの試合をサブコンで観戦していた私は、6回の攻撃に疑問があり、川北運営部長、高沢打撃コーチと「巌のバッティングと堀の走塁」について談義。今年の会は、日本クラウンの新人歌手・山口のりさんがゲスト出演し、新曲「指」を歌ってくれ、会場が大いに盛り上がった。大阪市住之江区の出身だとか。監督やコーチにサインをしてもらい、写真を撮り、ビールを飲む。今年は広報部長がいないため、私自身の写った写真が少ないが、それでも監督を囲む写真には収まることが出来た。山本監督、今年は27年振りの優勝をゼヒお願いします。頼ンまっせ〜〜〜、監督。10月2日、ありがとう、我が永遠の千葉ロッテ。2001年度の全日程を終了。今シーズンの全日程を終え、我が千葉ロッテは昨年同様5位と、依然としてBクラスから抜けだせない。今季のスタートダッシュはすばらしく、黒木の復調、サブローの打棒爆発等で10勝一番乗りを果たし、序盤戦には投打に明るい話題があった。しかし、シーズンを通し、主砲石井が二軍落ちし、初芝の不調が長期化し、またエース黒木も8月終盤から戦線を離脱し、投打の主軸を欠き、苦しい戦いを迫られた。特に9月8日(土)、千葉マリンで日ハムに勝利し、5割をキープしてからの終盤戦に力つきてしまった。これ以降の勝敗は5勝15敗となり、千葉ロッテは今年も1年間戦うだけの戦力を持てずに終了した。個々にみれば、3番一塁に定着した福浦が、終盤日ハムの小笠原と争い、.346で初の首位打者を獲得し、テスト入団したメイも.282の打率を残し、主砲ボーリックと31本の本塁打を放っている。新加入のミンチーは12勝14敗と負け越したものの、3.26で防御率トップの成績を残し、小野は10勝9敗で防御率3.74の6位。ルーキー左腕・加藤は9勝をあげ(10敗)防御率4.11の8位、途中欠場のエース黒木も11勝4敗の成績を残している。「京葉幕張拙攻貧打線」と揶揄し続けた伝統のミサイル打線は、投手陣の信頼に答えられず、その拙攻ぶりが逆に投手陣に大きなプレッシャーとしてのしかかった。その逆がパリーグを制した近鉄である。来季は多少の出血を覚悟しても、チームの要となる日本人大型大砲を獲得し、打撃陣を強化すべきであろう。もちろん第二の福浦を育てることも大事な課題である。
奈良県のボーイズリーグに「日本少年野球連盟奈良県支部香芝ボーイズ」というチームがあるが、このチームの顧問は小林秀邦さんという方で、現在は(財)日本室内楽振興財団にお勤めだ。私が入社した当時は、同じ職場におられた先輩である。
小林さんが「香芝ボーイズ」チームの代表として活躍されていた頃、小学校5年生の喜多隆志少年が入部して来た。喜多少年は速球派の投手、外野手として活躍し、全国大会でベスト4まで勝ち残ったこともあったそうだ。やがて喜多隆志は智弁和歌山に進学し、1997年夏、第79回高校野球大会で古豪・平安を6対3で敗り、優勝した。その後、慶応大学に進学し、2001年東京六大学秋季リーグ戦では、11試合に出場し、43打数23安打、打点8、打率.535を記録し、東京六大学史上最高打率を更新し、慶応大学を優勝に導いた。正に「東六の安打製造機」である。そして昨年の暮れ、我らが千葉ロッテマリーンズに入団した。入団が決定するや、2001年12月29日(土)、「香芝ボーイズ」の小林元代表(現顧問)ら地元奈良県の野球関係者有志が、橿原ロイヤルホテルで「喜多隆志君入団祝賀会」を催し、喜多外野手は真新しい背番号3のユニフォーム姿で登場した。その時、小林元代表に贈られたサインとサインボールが、永く千葉ロッテを応援し続ける私に届けられた。小林元代表のお話では、「喜多隆志後援会」設立の動きもあるとか。ぜひとも参加し、将来千葉ロッテマリーンズの主砲となる喜多隆志外野手を応援したい。昨年の暮れに骨折していたことが判明し、残念ながら、今は2軍スタートとなっているが、もうすぐ1軍キャンプ地・鴨池球場にその勇姿を現すであろう。頑張れ、我らの喜多隆志!!10月19日(土)、2002年度の全日程を終了。10月18日、千葉マリンでの対近鉄戦を完封リレーで飾り、今シーズンの全日程を終了した。エース・黒木の故障を抱えて突入した今季は、ボーリック、メイ両外人と初芝の不振、小坂の骨折で、何と開幕11連敗と最悪のスタートとなった。この間、球団フロントは戦力の補強すらせず、終盤オーナー代行の叱責を受けることとなった。オールスター明けの後半は、先発エース・ミンチーを中心とし、清水直、加藤、等先発投手陣が踏ん張り、中継ぎ陣の藤田、川井、小林宏、シコースキーと繋ぎ、守護神・小林雅に繋ぐ勝利方程式が完成した。この結果、小林雅はパリーグ連続セーブ新記録、日本プロ野球連続セーブポイント記録を更新した。優勝する力のない弱小球団にあって、この連続セーブポイント記録は、記録以上の価値がある。一方、攻撃陣はどうだったのか。メイは夏場以降その打棒を少し取り戻したものの、ボーリックは登録を抹消され、9月に退団帰国した。Hのバットはいつまでも火を吹かず、私は「来季のHは千葉マリンの選手兼任ビール売り子案」を家族に提案した。Hを初めとするM、O、S、T、等のベテランがシーズンを通して結果を出さなかった。投手陣の若手は育っているのに、野手陣の若手が育って来ないのは、どうしてだろう。この際、千葉ロッテマリーンズ球団に言いたい。本当に日本一を望んでいるのなら、もっと補強に力を入れろ、と言いたい。カネを出せ、と言いたい。1952年12月4日、と言うから今から50年前の昭和27年のことだが、パリーグでは翌年から勝率.350以下の球団に500万円の制裁金を科すと決定している。こんにちの御時世では、制裁金は1億円位にして、このような制裁は、プロ野球全体の人気回復とファン無視の球団経営に対する罰則としては、必要な措置なのかも知れない。私の提言は全試合の勝率だけではなく、全球団との勝率にも適用すべきだと考えている。日本プロ野球球団経営に公的な資金を投入することは、決してあり得ない。しかし、金銭的に何の努力もしない球団が存在すること自体は、日本プロ野球のためには、恐るべき結果「日本プロ野球消滅」を招くだけである。また、ある球団の優勝のためにだけ存在するドラフト制度も、ここらで再検討しなければなるまい。昨年から顕著に観られる巨人を中心としたプロ野球ナイターの視聴率低下は、永年にわたるセリーグ中心の放送形態と独占的球団経営に対するプロ野球ファンの反逆と観るのが正しい見方であろう。F1、F2ではない、おっちゃん(M3)・おばちゃん(F3)の力を馬鹿にしてはいけないぞ。山本監督5年目の来季、幕張拙攻貧打線の弱点補強のための大胆なトレードと、ドラフト戦略では即戦力と将来性の二面を考慮し、又現有有望若手選手の育成で、リーグ優勝を大いに期待している。
5月17日(土)と18日(日)は、大阪ドームの「千葉ロッテ・ビジター応援デー」であった。3月OAPの帝国ホテル大阪での「山本功児監督とコーチンク・スタッフ激励会」の席上で、監督の実兄で瑞兆企画代表の山本博史氏が「ビジター応援デー」参加を呼びかけられていた。忙しさの余り、忘れていたところ、監督の実兄から電話があり、思い出した。外野応援団と一緒に応援するのが決まりだが、腰痛のためそれはお断りし、バックネット裏からビールを飲みながら応援することに決めた。5月17日(土)、少し日ざしの強い中を嫁と二人大阪ドームに向かう。大阪ドームでの観戦は、大阪ドームが「近鉄バッファローズ」の本拠地として完成した年の平成9年5月28日(水)、吉鶴憲治元捕手(現二軍バッテリーコーチ)のプロ入り第1号ホームランを確認して以来、今回で二度目ということになる。ずいぶん長い間、千葉ロッテの試合をナマで観戦していないことになる。初回早くも福浦の2ランが飛び出し、幸先が良い。「よっしゃ」と拍手を送っていると、隣で観戦していた中年の男性に声をかけられた。「福浦選手はいい選手ですね」と。まさか大阪ドームのバックネット裏に千葉ロッテファンがいるとは考えなかったので、恐る恐る聞いてみた。「千葉ロッテファンですか?」「私はファンではないのですが、息子が熱心なファンで、今外野席で応援しています。もうすぐ、ここに来ます」ほどなくビジターの黒いユニフォーム姿で息子さんが現れた。話を聞いていると、この大学生の息子さんは、阿部祐亮くんというのだが、読売テレビの報道局でアシスタントのアルバイトをしていることが判った。世間は広いようで狭い。「それじゃ、今度報道局を訪ねましょう」と言い、前日に続く千葉ロッテの勝利を確認して別れた。試合終了後も、外野応援団のエールは止まるところがない。私達はこの後、監督の実兄に電話をして、道頓堀の半田屋で行われる「千葉ロッテ外野応援団を応援する会」に参加する予定であった。午後7時半から始まった「千葉ロッテ外野応援団を応援する会」は、関東から駆け付けた応援団でごった返していた。広い座敷きに足の踏み場もない程の千葉ロッテファンが、ひしめき合っていた。私達老夫婦も若い熱気を感じながら、共に応援する仲間として、飲み且つ熱く語り合った。外野応援団長の田中英貴さんや、橋本将捕手に似ているところから「たすく」と勝手に命名した福沢洋介くんとも知り合いになり、「たすく」からはその後メールを貰う。北陸シリーズにも応援に行く予定だとか。
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阿部君は読売テレビ報道局でアシスタントをしています。その後、読売テレビ報道局でアルバイトをしている阿部祐亮くんとは、仕事の合間に熱く千葉ロッテを語り、酒を呑んでは熱く千葉ロッテを語っている。千葉ロッテ山本監督実兄の山本博史氏、外野応援団関西支部の永岡信行くん、阿部祐亮くんと一同に会して、酒を呑みながら千葉ロッテの話で盛り上がりたいものだ。
10月12日(日)千葉マリンで、オリックスを5対1で下し、今季の全日程を終えた。最終戦を前にして5年間指揮をとった山本監督の退任が決定し、今シーズンも不本意な成績に終わった。不振のボーリックを解雇し、新たにリック・ショート内野手、ホセ・フェルナンデス内野手を獲得し、また、波留敏男外野手、垣内哲也外野手、井上純外野手、代田建紀外野手、原井和也内野手、舩木聖士投手をトレードやトライアル(テスト入団)で補強した。しかし、2年目のメイはシーズン初めから、期待したサブローは不振のため共に二軍に落ち、投手陣では加藤、小野が期待を裏切り続け、これまた二軍に行ったきり戻る事は無かった。補強したはずの波留、垣内らは往年の力を発揮せず、2年目の喜多やルーキー西岡らの若手も思ったより育たずに終わってしまった。しかしながら、打撃不振のチームにあって、ミンチー、清水直、小林宏、渡辺俊ら投手陣はよく耐えた。特に、途中から先発に廻った小林宏は、序盤の失点を修正し、中盤以降立ち直り勝利を挙げる粘り強い投球内容が光った。彼等4人の投手は来季の先発4本柱である。打撃陣は大きな課題である。フェルナンデスの加入で大砲は出来たものの、細かく繋ぐ野球が出来ていない。盗塁が少ない。併殺が多い。その中にあって、16年目の堀はシーズン終盤には4番DHを務め、自己最高の22本塁打を放ち、打率.298を記録した。また、フェルナンデスは打率.303、32本塁打、100打点を記録し、中心打者としての責任を果たした。9月15勝6敗1分、10月7勝2敗と、シーズン終盤に見せた攻撃は、来季に繋がるものと信じたい。最後になるが、毎年シーズンを戦う戦力ではない、と知りながらも、ロクな補強もせず、5年間に渡って放置し続けた球団フロントに対し、不平不満を言わず我慢強く指揮してくれた山本功児監督にお礼を申し上げたい。前阪神監督の野村克也氏が指摘するように、おカネを出さなければ強いチームにはなりません。山本監督、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとう。
今日は2004年度パリーグ開幕戦である。我らがバレンタイン千葉ロッテは、午後1時から西武球場で西武ライオンズと対戦する。昨年までチームメイトであったフェルナンデスが、カブレラと共に千葉ロッテに戦いを挑んでくる。あろうことか前代未聞、開幕1週間前の20日、ボビーは開幕から5連戦の先発投手を公表した。
月日 対戦相手 球場 先発投手 昨季成績 3月27日(土)
西武 西武ドーム
清水 直行
15勝10敗 防3.13
3月28日(日)
西武 西武ドーム
ミンチー
14勝9敗 防4.54
3月29日(月)
近鉄 大阪ドーム
渡辺 俊介
9勝4敗 防3.66
3月30日(火)
近鉄 大阪ドーム
小林 宏之
10勝10敗 防3.84
3月31日(水)
近鉄 大阪ドーム
小宮山 悟
出場なし 今年のパリーグは熱いか? 昨年の日本一・ダイエーから小久保が巨人に去り、村松が新生伊原オリックスにFA移籍した。球団名を売却しようとした近鉄からローズが巨人に移籍し、西武からリトル松井がメッツに転籍、主砲カブレラはオープン戦で骨折、元千葉ロッテのフェルナンデスが加わった。日本ハムは北海道に本拠地を移し、大リーガーSHINJOが戻って来た。3月25日、スポーツ報知の評論家12名の順位予想では、1位ダイエーが11名。金村義明氏だけが千葉ロッテの1位を予想している。千葉ロッテ2位予想は近藤昭仁氏、権藤博氏、原辰徳氏、斉藤雅樹氏、水野雄仁氏、安藤統男氏、掛布雅之氏、達川光男氏の8名。3位が鹿取義隆氏、福本豊氏の2名。4位なし。5位が村田真一氏の1名。6位なし。なんと12名中11名がAクラスを予想している。昨年までは考えられなかった出来事である。昨年秋、バレンタイン監督を迎え物静かなチームの雰囲気は一変した。山本監督時代には考えられなかった破格の補強をし、韓国の大砲・李スンヨプ、ハワイアンパンチのベニー、万能守備を誇るフランコ、左腕セラフィーニを獲得した。また浪人中であったかってのエース小宮山が復帰し、二軍スタートにはなったものの黒木復活もある。それぞれの選手が自分の力を発揮すれば、日本一も夢ではない。ボビーの指揮を信じ、外野応援団のサポートに応えて、頑張れ、我らが千葉ロッテ!!!
2005年11月30日(水)、31年ぶりの日本一。そして初代アジアシリーズ・チャンピオン。ボビー、ありがとう。
開幕から一通り対戦した頃、今年の千葉ロッテは少しちがうぞ、と感じていたことは確かだ。西岡、今江といった若手の台頭に、レギュラークラスの選手たちが「うかうかしてはいられない」との気持ちを芽生えさせたたことは、バレンタイン監督の選手に対する意識革命であった。
「今年はやる気だ、千葉ロッテ! BUILDING OUR DREAM ! 夢をみんなで」
しかし、交流戦の初代チャンピオンに輝いた頃から、投打共に急速に低下し、トップを走っていた千葉ロッテは、ソフトバンクに首位の座を明け渡すと、徐々にその差を広げられつつあった。また今季も同じ結果であるのか、と思い始めたのも無理はない。ソフトバンクは負けない、ならば必死に喰らい付いて行け、と激を飛ばした。終盤9月の4連戦、3勝してその差を2ゲームまで詰め寄ったが、4戦目を清水で落とした。Aクラス入りは確実ではあったが、首位ソフトバンクとのプレーオフは激しい戦いであり、パリーグを制することも、正直困難と思われる状況であった。王手を掛けたプレーオフ第3戦、4対0からの逆転負け。小林雅、これが31年の重圧であろうか。もうパ制覇さえも危ぶまれた。がしかし、2勝2敗のイーブンで迎えた第5戦、今季引退を表明した初芝の内野安打をきっかけに逆転。最後は小林雅が押さえて、ボビーの身体がヤフードームの空に舞い、31年ぶりにパリーグを制覇した。迎えた日本シリーズでは、阪神を投打共に圧倒し、第4戦甲子園でもその強さは失われなかった。初めて僅差となった試合ではあったが、堂々と攻め、守る千葉ロッテの選手は眩しいほど輝いていた。自信に満ちあふれていた。3回裏2死2塁でのライトを守るフランコのダイビングキャッチ、9回裏無死1塁での今江の積極果敢な併殺プレー。猛虎阪神を4タテ。目の前で胴揚げされるボビーの姿を、涙を堪えて見守った。ようやった、ボビー、コーチ、選手諸君、球団関係者のみなさん、そして「背番号26の戦士たち」、ありがとう。
「やったぞ、千葉ロッテ! 31年ぶりの日本一! 日本シリーズ2005 第4戦写真集」
今季千葉ロッテの戦いは、投打が旨く噛み合った、ともいえるが、守り勝ったことが大きい。再三のピンチを小坂・西岡・今江の三遊間が超美技で凌ぎ、ベテラン堀の好守、福浦の好捕、サブローの強肩、大塚のジャンピングキャッチ、諸積の空中を飛ぶ捕球、数々のファインプレーが投手陣を助けた。さらにはスキあらば積極的に走塁するアグレッシブな攻撃。バレンタイン監督の考えた野球・スモール野球が花開いたシーズンであった。初代アジアシリーズのチャンピオンにも輝き、20日の優勝パレードも瞼に焼き付けた。その夜、偶然にもサブロー、西岡、渡辺正、高橋コーチに会った。「ありがとう、高橋コーチ」「ありがとう、サブロー」「ありがとう、西岡」「ありがとう、渡辺」と声を掛け、握手をした。
「やったぞ、千葉ロッテ! 31年ぶりの日本一! 歓喜の優勝パレードとファンフェスト写真集」
優勝したことのある他球団からの移籍選手は別として、今季千葉ロッテ支配下選手にとって、初めての日本一は生涯忘れられない出来事であったであろう。川崎球場時代を知る今季引退の初芝、ベテランいぶし銀の堀、精密機械の小宮山、復活した黒木らにとって、どんなに嬉しいことであったか、容易に想像出来る。一方、1年前に阪神に移籍した立川隆史(30歳)外野手のことを考えると、胸が痛む。千葉移転から2年後の1993年オフに拓殖大紅陵高から高校通算32本塁打の記録を持ってドラフト2位で入団。ドラフト3位の大塚明(別府羽室台高)、ドラフト5位の諸積謙司(法政大−日立製作所)、ドラフト6位の小野晋吾(御殿場西高)、ドラフト7位の福浦(習志野高)とは同期入団である。1996年一軍入りを果たし2004年までの9年間弱、弱小千葉ロッテの外野の一角を守り、一時は4番を勤めたこともある。ボビーが復帰した年のシーズン途中2004年6月15日、左打ちの平下晃司外野手とのトレードで阪神に移籍した。人気球団へのトレードは彼にとって決して悪い話ではなかったはずだ。しかし、今季阪神はセリーグとウエスタンを制したとはいえ、古巣千葉ロッテがプレーオフ第1ステージ直前の10月5日、立川は戦力外通告を受けた。フレーオフを快進撃しパリーグを制した古巣を、そして解雇された球団との日本シリーズを、どのような気持ちで見ていたのであろうか。日本一の美酒を味わうことなく、千葉ロッテを去った選手を追ってみたい。と言っても、伊良部秀輝投手まで遡りたくはない。まして30年は遠すぎる。1990年代に入団し、私の記憶に残っている選手が中心となる。まずは、1991年オフ、日本文理高からヤマハを経てドラフト1位で入団した吉田篤史(35歳、現在の年齢、以下同じ)投手がいる。2003年4月、橋本武広投手とのトレードで星野仙一・阪神に期待されて移籍したものの、2年間もの間一軍登録はなく、2004年オフに戦力外通告を受けた。2005年には横浜の牛島監督に請われ、一軍投手コーチに就任。永い間、小宮山等と共に千葉ロッテの投手陣を支え、右の中継ぎとして活躍した男であった。「千葉ロッテに公的資金の投入はない」との名文句を吐いた。立川に比べれば、まだマシか。左の押えであった河本育之(田布施工ー新日鉄光、38歳)投手は、1991年ドラフト2位で入団、グイグイと速球で押す小気味いい投球で、成本年秀とダブルストッパーを勤めたが、1998年に肩を壊し、2000年石井浩郎とのトレードで巨人に移籍。2004年シーズン途中に(中村)隼人とのトレードで日本ハムに移籍。同年オフに自由契約となり、楽天に入団。少し太ったが、根性のある目ん玉はそのまま。立川に比べればマシだろう。1992年オフのドラフト2位は、成本年秀(西宮東高−京都産大−大阪ガス、37歳)投手。2001年に阪神にテスト入団し、2003年ヤクルトに移籍し、2004年オフに引退。2005年台湾の統一に移籍してオフに退団し引退。2006年からはヤクルトの一軍投手コーチに就任。立川に比べればマシだろう。この年、ドラフト1位で入団したのは武藤潤一郎(吉原商高−専修大−プリンスホテル、36歳)投手。2002年日本ハムに移籍、2004年西武に移籍、2005年台湾の兄弟に移籍、2006年には横浜の二軍投手コーチに就任するようだ。立川に比べればマシだろう。1996年ドラフト1位清水将海(東農大二高−青学大、30歳)捕手。この年のドラフト4位が小林宏之投手(春日部共栄高)、同5位が小坂誠内野手(宮城・柴田高−JR東日本東北)。山本監督時代の正捕手。強肩ではあるが、打力がねぇ。2004年オフに手薄な中継ぎ左腕・山北茂利(27歳)とのトレードで中日に移籍。谷繁がいたんではレギュラーを張れるか。立川に比べればマシだろう。2001年ドラフト1位で入団した東京六大学の安打製造機・喜多隆志(慶大、26歳)外野手も、そのデビューこそ華やかな2試合連続のサヨナラヒットで飾ったが、今や同3位の今江敏晃(PL学園、22歳)内野手に完全に追いこされている。そろそろ一軍で活躍しないと、忘れられてしまうよ。立川に比べればマシだろう。今企業では、一度退社した会社に再就職するケースがあると聞く。私が勤めていた会社でも、実際にあった話だ。立川も小宮山のように、千葉ロッテに復帰する気はないのだろうか。垣内よりもマシだとは、思うのだが・・・。今年8月、10年ぶりに千葉マリンを訪れた時、マリンスタジアム内外の空気が10年前と比べて、大きく変わっていることに気付いた。千葉ロッテ球団の「ボールパーク化構想」への意気込みが感じられたのだ。こういう発想をする球団ならば、今年は無理としても、2〜3年すれば日本一も夢ではない、と確信した。しかし、まさか今年その夢を実現するとは・・・、感無量である。40年勤めた会社を退職した年に、初孫を抱く喜びと、千葉ロッテの日本一を、神は私に与えてくれた。しかも、ボビーの胴揚げまでも観せてくれたのだ。昨年の球界再編を経た2005年のシーズンを、千葉ロッテがすべて制覇したことの意義は、千葉ロッテファンだけではなく、日本プロ野球界にとっても極めて大きい。